「幸せに気づく時間」~鈴木秀子さんの本より~

私が大好きな方の一人に鈴木秀子さんという方がいます。クリスチャンであり、死にゆく人の看取りをされている本当に素晴らしい、尊敬する方です。多くの著書を書かれている中に、「幸せを感じる時間」という本があります。短編集ですが、一つ一つの話には心温まるエピソード満載で、自分の心が清められ、豊かになる話ばかり。温まる気持ちを分かち合いたいので、一つご紹介します。

無為であること

 私の友人に初孫が生まれました。6ヶ月で生まれたその赤ちゃんは、体重わずか425グラムで、すぐに保育器に入れられました。赤ちゃんの両親は、「どうか生かしてください」と医師にすがりました。不安な状態のまま、日々が過ぎていきます。保育器のガラスごしに赤ちゃんに会えるのは両親だけ。それも3日に一度だけです。医師に質問できるのも両親だけでした。小さないのちが必死に生きようとしている。その姿を前に、両親はひたすら<どうか頑張って>と念じ続けました。

 赤ちゃんに会うことすら叶わない祖父母は、不安のかたまりになりながら、遠くから、何もできない苦しさにじっと耐えるしかありませんでした。そして、お嫁さんからの報告をただ黙って聞き入りました。質問したいことは山ほどありましたが、ぐっと抑えて口にはしませんでした。「きっと、この子の誕生には大きな意味がある」祖父母は、その確信にすがっていました。自分たちにできること、それは赤ちゃんを助けようと懸命に努力している医師団に深く感謝すること。そしてどんなにか不安であろう息子夫婦を、あたたかく抱え、支えることだけでした。それしかできない、しかし、そこに心を尽くしたのです。

 多くの人々の助けを得て、赤ちゃんは半年かけて3000グラムにまで育ち、やっと退院することができました。おじいちゃん、おばあちゃんは、はじめて孫を抱くことができたのです。その顔は幸せに満ちています。相手のために力になりたくても、何もしてあげられない。それはとてもつらいものです。しかし何もいわず、何もしない、無為であることが、自分にできうる唯一最大のことという場面もあるのです。そんなときは、自分の内面を静かに整え、周りにはひたすらあたたかい”気”を送り続ける。それが”祈り”なのかもしれません。

人の役に立ちたいという気持ちがあると、山もりのお礼を言われるほどのお節介をやくとか、反対に何もしないでいることは罪悪であるかのように感じることがあるけれど、相手の立ち位置に入ってみて本当に欲している出会いが見えてくる。そして手を出さないでそのままでいるという智慧が実際の行動となって現れたとき、あたたかさとなって伝わっていくということを教えられた。