父の供養をしてきました。

先日、仕事がお休みで久しぶりに実家へ行ってきた。実家には妹と母がのんびりのほほんと暮らしている。

ちょうど、3年前の9月15日、父が家から旅立った。笑っちゃうほど、見送る直前まで笑い声で包まれてた我が家。家族に囲まれ、父もうれしい旅立ちだったんではないかと思う。あのときのことは今でも覚えているが言葉にすることはためらわれ、今まで書けなかったが、ようやく書ける気がするので残しておこうと思う。
 
父の病がわかったのは亡くなる3ヶ月前。ちょっと前の5月中旬に交通事故を起こし、念のため検査するために病院に行き、発覚した。嫌がって連れていくのに閉口したが、今思えば、自分の病がばれることが嫌だったのだと思う。
かなり糖尿の数値が悪いとのことだったが、それ以上に肝臓の数値がぶっ飛ぶほどで、できるだけ早く入院するように言い渡された。
父は医者に言われ、仕方なく入院し、精密検査を受けた。そして後日、家族が呼ばれて説明を受けたが、父は肝臓がんの末期で、もはや手の打ちようがない、しかも肝臓の腫れ方が尋常でなく、いつ破裂してもおかしくないという。余命は1ヶ月だった。
糖尿の治療は即インスリン注射を始め、数値はおさまったが、肝臓がんのことを思えば、じきに食がほしくなり、必要なくなるだろうことは予測できた。
医師からは、最期を病院か自宅かどちらを選択するかという確認だけされた。医者がどうこう言おうと父は帰ると言うことを、母も私たち三姉妹もわかっていた。病院の喫茶コーナーで、連れて帰り、家族で交代で見ることを話した。退院までの期間で、家で受け入れる準備を整えるため、すぐに介護認定を申請し、ベッドやトイレ周りの仕度を始めた。
 
入院中の父は糖尿の治療が効いて体のだるさがとれたこともあり、帰りたくてうずうずしていた。が、夜中に意識が混濁して病室に帰れなかったり、トイレで失敗したりもあって、自分の衰えにショックを受けていた。自分の病がどれほどのものか、本当のところはわかっているわけではなかったし、認めたくなかったと思う。
 
7月に退院してから自宅にて訪問看護と医師の訪問診察を受けるように。しばらくは体の調子は小康状態であったが、ゆっくりと衰えていった。
8月に入り、母が買い物途中で腰を圧迫骨折し、さらに熱中症で救急搬送され、父と母の二人を見なければならない状態になった。家に一緒にいた妹が本当によくやってくれた。私と、もう一人の妹が交代で行き来し、8月を乗り切って9月に入り、母も自宅に帰ってきた。
全く仲のいい夫婦で、自宅の部屋は父の介護ベッドと母のために新たに購入したベッドが並び、二人してテレビを見て過ごす日々だった。
9月、ちょうど父が亡くなる5日ほど前だったか、トイレに行くのにベッドから起き上がろうとする父を私が介助していると、テレビでは相撲の放映が。妹たちがゲラゲラ笑っている。どうしたのか聞いてみると、力士が四つに組んでいるみたいだという❗こっちは必死で父を動かそうとしているのに❗でも、なんだか笑っちゃって言われてみればそんな感じだわー。と言いつつ、用を足した父をベッドに戻したこともあった。
食も細くなったものの、最後までご飯を食べることをし続け、私たちが買ってきたギョウザも食べるなど、終末期と感じないものだった。
 
父には双子の兄がいた。私たちにとっては父とそっくりのおじだったが、虫の知らせか、おじは父に会いに来ることに抵抗があったようだった。父の様子に、もう長くないと感じた私が連絡を取り、見舞いに来てくれた。お寿司を買ってきてみんなで食べ、父とおじは二人して、そっけない感じで、「また来るわ」と言い、おじはそそくさと帰っていった。見ていられない気持ちとお別れのつもりだったのだろう。
父はおじが残した寿司を食べたいと言い、エビのお寿司をひとつ、食べた。これが、父が食べた最後の食事だった。海老を食べたあと、のどにつかえるようで咳が止まらず、ホットタオルを胸に入れ、タンがきれるように背中に布団をいれたり、ひととおり世話をし、妹に託して自宅に帰った。その日の夜中、妹は咳が止まらない父の胸にホットタオルをいれ、体位を反るなどを繰り返しながらも徐々に呼吸は浅くなっていくのを見守ってくれた。
明け方、妹から連絡が入り実家へ。耳元で声をかけると目を開けたが、すぐに意識が朦朧としていた父。妹も家族とかけつけ、家族が見守るなか、父は9月15日、9時半ごろ静かに旅立った。まるで、おじは来るのを待っていたかのようだった。
 
父は北海道で生まれ育ち、10代で東京に出てきて、北海道の兄弟とは疎遠だった。父が逝った次の日、北海道から父の姉が夜行列車で東京に出てきたのだ。東京にいる息子のところに来たという。神仏は時に不思議としかいいようのない、すごいはからいごとをしてくださるものだ。葬儀まで5日ほど自宅で過ごすことになっていた父に会いに来てくれたのだ。叔母とは二十数年ぶりの再会だった。
余命1ヶ月が、3ヶ月。父ががんばってくれたことで、私たちにとってはお別れする心の準備時間をもらえたように思う。
 
葬儀当日、母は喪主挨拶でこんな言葉を言っていた。「主人はとてもいい人でした。私はたくさん泣いて、もう泣くことはおしまいにしましょうと思って今日を迎えました。」
家にいるとき、そんなそぶりはちっともみせなかったけど、腰の圧迫骨折と熱中症で入院していたとき、一人きりで泣いてきたのだろうか。天然ボケで子どもの方が母を心配ばっかりしていたのだが、やはり夫を送る妻としての思いにはかなわない、心底そうおもった。
そして父は、最期まで誰にも下の世話をさせることはなかった。トイレにたてなくなってきて、そばで見ていた妹は、いよいよおむつが必要になるかと覚悟をしたが、父はそうさせることなく、潔く去ったように感じた。
全く仲のいい夫婦で、私の自慢の両親である。