母のこと

先日は父のことを書き、ちょっと気持ちの整理ができたので、今回は母のことを書こうと思う。

 
私の母は素晴らしい天然印の人で(笑)、私は小さい頃からしっかり娘として生きてきた。この母のもとに生まれれば、必然そうなるかなと思う。お母さんを選んできたという考えで言えば、私がそういうことをわかって、願って生まれてきたとも言えるがどうだろう。
それはさておき、この母の天然ぶりは思春期には耐えがたいものがあり、そのお陰でずいぶんしっかり者となり、甘えかたを学び損ね、意地の張り方は人一倍上手くなって成長してきたという自負がある。
 
泣き言も言わず、ほんわかした母。
生意気言う娘を信じきって任せてくれる、大きな器を持っている母。
理性的でさっぱりとして、ねちっとしたところはなく、しかし依頼心が強く、気づけば、つい面倒を見てもらっている甘え上手な母。
子煩悩だった父はゆっくりマイペースの母を尻目に子どもたちの面倒をたたっと、見ちゃうタイプで、私たちはパパっこだと思っている。
 
父が逝ってから3年。一緒に暮らす妹は、母の様子をよく見てくれている。
父が亡くなった直後、母は食事の支度も掃除、洗濯のいずれも全く、まるで手をつけることを拒むかのようになにもしなかった。いや、何もできなかったようだ。娘たちから見ると本人は自覚していないように見えるが、伴侶を失った喪失感がうんと深かったのだろうと感じる。それでも「時」は優しく人を癒すもので、いつの頃からか、一緒に暮らす娘のために食事作りをするようになり、洗濯もするようになった。
最近よく、母は、私には「お父さんがあんなに早く逝っちゃうとおもわなかったねえ」と口にすることが多くなった。寂しさを言葉にするようになったのだ。どんなにか強い人でも夫婦の絆、相棒を失う大きさははかり知ることなどできないと感じながら、ただただ「うん、まったくそうだねえ」と相づちをうつより術がない私だ。
 
年々、年を重ねるといろんな不具合、それは主に身体的側面が多いが、残念ながら脳の衰えも見えてくる。母も例に漏れず、薬の管理がままならなくなっており、認知症状が散見されるようになってきた。たまに行ったくらいでは見落とすような小さな変化を叔母が騒いで教えてくれることもありがたいことである。先日実家に行き、私自身、ゆっくりと母と話ながら様子を見て、認知症状を認めざるを得ないと感じて帰ってきた。
近々、もう一人の妹がかかりつけ医のもとに連れていくので、母の様子がわかることになる。それと共にまたひとつ、覚悟を決める時がくるのかもしれない。
 
姑の時は自分が鬼かと思うほど冷静でしかも生意気で、薬の管理や食事の仕度などができなくなっていることを私が代わりにしてやっているという気持ちに支配されたまま、介護生活に突入した。仕事もあり、子どももまだ小さかったから、こういう気持ちで日々過ごすのは本当に精神衛生はすこぶる悪くて、自分の心が荒んでいたことを思い出す。
妹二人が母のことを色々文句のように言うことは痛いほどよくわかる。まして、自分の親となれば手加減なしで、黙って聞きつつも切ない気持ちが起こるほどである。二人が言う言葉が私の胸にチクリと刺さる度に、私は姑にたいして、心で抱いていた気持ちを思い出し、今更ながらに天に向かってお詫びするのだった。
と、まあ、そんな自分の時の体験を思い出しつつ、これから迎えるであろう介護生活にどう向き合っていくのか、妹たちと協力し、分かち合い、けっして誰も我慢することがないよう、犠牲感がないようにしたいと思っている。
 
そして私は母を見ながら、自分の行く末にも心が向いたのだった。老いて身心の衰えが出てくることにはそれなりに今から心の準備はあるつもりだ。
私には一人、娘がいる。将来、この子の肩にフルスペックなら四人の老人が世話になる可能性があるわけで、出来うるならば、私自身はピンピンコロリ、娘には迷惑をかけずに逝きたいと切に願うところだ。それには今から自分を律することが必要だと感じている。40を境に発症した糖尿病を悪化させないこと、私に課せられた課題だ。
 
介護生活を経験し、少なからずいろんなことがあり、それは苦き薬でもあったわけで、面倒を見られる方も面倒を見る方もいくつも越えた山谷があった。心を研ぎ澄ませ、心のひだを増やし、器を大きく作るまたとない機会であったことも事実である。が、それは私にぴったりの、私だけのオーダーメイドの研磨剤だったので、彼女には、できれば違う形の研磨剤であってくれたらいいなあと、親バカにも心動かす自分である。 
 
 
いろんなことを気づかせてくれる、
大事な、大事な、母である。