第8回目のバーチャル憲法カフェは、憲法十八~二十条の解説です。
憲法十一条から十四条で「基本的人権の尊重」という人権規定の理念が書かれていましたが、十八条からは、市民が王さまと戦って、王さまから自分たちの人権を勝ち取ってきた歴史的背景が条文に表れているところです。「人権のカタログ」と言われているところです。
「人権のカタログ」ですか!
なんだか、面白そうです。
さっそく、憲法十八条の解説からお願いします。
憲法十八条
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
憲法十八条は、犯罪による懲罰を除いて、権力者が私たち国民を身体的に拘束することを禁止しています。「奴隷的拘束」とは、たとえば、アメリカの奴隷制度をイメージするとわかりやすいですが、国の承認の下、お金持ちがアフリカ系の人たちを身体的に拘束して職業や結婚、学問の自由などの人権を包括的に縛って強制労働を強いていました。私たちの自由を奪う奴隷的拘束は最たる人権侵害ですから、過去にあった強烈な人権侵害を防ぐ規定として十八条が定められています。
私たちが今、権力者から人権侵害を受けずに済んでいるのは、過去にひどい人権侵害を受けた人たちの想像を絶する犠牲とすさまじい人権回復の努力の賜物なのですね。
世界史の項目の一つくらいに思っていたけど、日本の憲法にも反映されていたのですね。
この十八条の条文によって、日本政府は徴兵制の導入をしないという立場を取っていますが、この解釈は主婦の皆さんの立場として、かなり重要な内容ではないですか。
本当にとても重要です。実は、私が初めて参加した憲法カフェでこの条文の意味や問題点を聞いた時、衝撃を受けました。政治家に任せっきりにしていたら、知らないうちに徴兵制が導入されて、夫や子どもが強制的に軍隊に入隊させられてしまうような可能性もあると知って、自分自身が憲法のことをきちんと学ばなければならないと感じたし、憲法カフェを開いて仲間と一緒に学びたいと思うきっかけになりました。
条文には「徴兵制」という言葉はないけれど、この条文が徴兵制の導入をしない根拠になっているのを初めて知りました。
具体的にはどういうことなのですか。
条文にある「苦役」とは「苦しい肉体労働」という意味で、徴兵制も含まれます。十八条は「その意に反する苦役に服させる」ことを禁止していて強制的に徴兵される制度、つまり「徴兵制」を導入してはならない根拠となっています。戦前の徴兵制のつらい経験を踏まえ、戦後、今の憲法が制定されて九条には戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認が明記され、十八条によって徴兵制も廃止されたわけです。
憲法に国に対する禁止事項が明記されて、国民の人権侵害を防止できたということですね。
そうです。これまでの流れで「十八条があるから徴兵制もなく、安心で大丈夫」となりがちですが、油断はできません。というのも、戦前の日本は、天皇のために兵隊になって戦う、死ぬことは苦役ではなく、喜ばしく光栄なこととという世論が作られました。光栄なことである以上、戦争に行くことを受けざるを得なかったわけです。つまり、皆が戦争に行く建前があったのです。そうすると、「その意に反する」という文言が「苦役」の前にあることにより、十八条も解釈によっては、徴兵制も光栄なことで、「その意に反する」ことはないので、十八条に違反しないとなるかもしれません。そういうことですから、改憲されて徴兵制が導入されなくても、現状のままで解釈を変えて、徴兵制が導入される危険性があり、気がつくと、韓国のスターが人気絶頂期に徴兵に行くような状況が日本にも起きることは十分あり得ます。そこで、十八条が間違って解釈(解釈改憲)されないように、また改悪されないように厳しく監視していくことが大切ですし、将来的にはあいまいな表現で憲法解釈の幅が出てしまう部分を「徴兵制を禁止する」といった直接的な表現を用いるなどの改正を考えることも必要になるかもしれません。
こうやって解説してもらわないと、全く気づかないです。
九条も解釈によっては、いずれ集団的自衛権を認めてしまうような隙間があると教えてもらいましたけれど、十八条にも同じような余白が存在しているのですね。
権力をしばる側の国民は、権力者が「考えすぎですよ、思い違いですよ。そんな悪い人に見えますか」って言って憲法を変えようとしている話に騙されないでほしいです。そのために憲法条文の意味を学んだり、人権妨害を受けている人のことを自分事にして想像して考えたり、国民がしっかり監視し、選挙を通して国民の権利を守らない政治家は排除するなど、不断の努力が大事です。
憲法十九条はどうですか。
憲法十九条と二十条の条文を見ましょう。
憲法十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
憲法二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
十九条は、自分の心の中で何を考え、何を思うかは、他人から一切干渉されない自由、つまり内心の思想・良心の自由を保障しています。
二十条は、一般に信教の自由といいますが、内心にもつ宗教上の信仰の自由や特定の宗教を信じる自由、信仰を変える自由、宗教を信じない自由までを保障しています。
十九条の「自分の心のうちにある思想・良心」というのは、歴史的に言えば信教の自由から始まり、その後、拡がって、共産主義や民主主義、自由運動、政治的信条などのイデオロギーも含まれます。そして内心に持っている思想・良心が表に出ると宗教活動や表現活動、学問追求といった様々な活動になっていくので、表に現れる様々な活動は二十一条以降で具体的に保障しています。そういう意味で十九条は二十条から二十三条のおおもとになる条文と言えます。
自分の心の中の考えとか思想、信条などを無理やり出すようにされたり、強制的に変えさせられずに守ってもらえるのはすごく安心です。
最近の中国やミャンマーは権力者が少数者を力で押さえつけています。
そうですね。西欧のキリスト教圏では、国の宗教に反することを言う異端者を力でねじ伏せてきた歴史があるし、日本も江戸時代、幕府は鎖国政策をとってキリスト教を禁止したので、キリシタンに強制的に改宗を迫ったり、信仰を捨てない者は拷問や処刑するなどの宗教弾圧の歴史があります。内心に隠している信仰を白状させる手段として「踏み絵」を用いたりしたわけです。そのような歴史的背景を経て、権力者が国民に内心の思想や良心を白状させるような圧力を禁止する条文として十九条や二十条が作られたのです。
二十条はどういうことですか。
二十条は信教の自由を保障しています。具体的には、どの宗教団体も自由に活動でき、国が干渉して行事を止めさせたりすることを禁止したり、政教分離の原則で、国と宗教団体は一定の距離を取らないといけないルールを定めています。信教の自由を制度的に保障するための仕組みが政教分離です。
特定の宗教を信じる人が集まって組織を作り、団体で動くことを保障するのですね。
そうです。この条文のポイントは、常に政教分離が徹底されているかどうかという点です。なぜ政教分離が必要なのかというと、権力とある宗教が密接になりすぎると、他の宗教を排除する、他の宗教を信仰する者の自由を奪う動きが出てくるからです。
日本人は、宗教を信仰している意識がある人は少ないですね。
八百万の神や神社や仏教寺、新興宗教があるし、12月になればクリスマスをやって、その1週間後には神社へ初詣に行って、さらについでだからお墓参りして…というまぜこぜな感じ国民性だから、「信教の自由」が少数者の人権を守るとは、イメージしにくいかも…。
日本人は、政治家であっても、誰も彼もクリスマスの時だけはわあーッとやるけれど、クリスマスってどういう意味なのかを、子どもにきちんと教えている人はそれほどいないように思います。もはやプレゼントをもらうイベントですよ…。
表面の形だけが残って、宗教行事が大切にする根本的な意義が伝えられなくなっていますよね。
イベントは大事だけど、宗教色は薄いですね。憲法の視点から大事にしたいのは、何かを信じろという話でなく、少数者の人権侵害はやがて私自身の人権にも関わってくるかもしれないという意識です。それに信仰は深いものだから、どうしても譲れないものがあると、そこで命を懸けるという可能性も否定できません。すると結果的に時の権力者とぶつかる場合もあるわけで、信教の自由を守れるかどうかはけっして、他人事ではないのです。
「少数派を守る」ことを書いているのが憲法の特徴ですものね。
そうです。自分らしく生きるために、たまたまその国や時代の話で少数者になることは誰にでもあるわけです。少数派の人が生きづらさを感じるのであれば、明日の私が生きづらくなるかもしれないから、少数者の人権は単なる「少数者の人権」の話ではなく、「私の人権」の話なのですよ。信教の自由からそういうことを想像できるかが重要ではないでしょうか。
「人権カタログ」と言われた意味はここにあるのですね。誰一人置き去りにしない「人権総目録」という感じですね。
いろんな人権がある中で、自分にとってどれが重要かと選ぶ話ではなく、どれも自分にとっては重要で「人権カタログ」の中で、自分があまり意識してなかったメニューを見て「あれ、これって今こういう世の中だと不自由があるのではないか」と考えながら、人権を守る術やアンテナを張り巡らせていくということが大事でしょう。
最近はLGBTの方の人権の認知が進んで違憲判決も出ているし、国民の中にも少数派の人権に意識が向くようになってきたけれど、信仰を持つ人はまだまだ自分の信仰を堂々と話すよりは隠しながらひっそりと活動していることが多い。「誰一人置き去りにせず、すべての人が幸せになる」観点から社会的な奉仕や貢献意識を持って動いている宗教団体もあるけど、某カルト教団の影響がずっと尾を引いて、宗教に対する偏見や誤解がいまだにあって、自分の思想・信条、信教の自由を語りにくい時代だと感じますね。
先日、駅前で宗教団体の人が通る人に、政府のコロナ対策で貧困に陥っている人の状況を訴えながらパンフレットを配っているのを見たけど、あまりに熱心すぎてちょっと引いちゃったのですよね。
宗教団体の人は純粋に困っている人を助けようと訴えているけど、市民の方は「この団体を信じても大丈夫なの?」って疑う目で見てしまう。いいことしても疑われるのはきついなあ。
いろいろ訴えようにも信仰を持たない人からの「信仰」に対する信頼が低いままで、信仰を持つ人の心の内側は辛くて不自由でしょうね。
宗教者というのは、国がおかしな方向に向かっている時には真っ先に声をあげる「うるさい奴ら」の筆頭なので、宗教者は権力者から早い段階で圧力をかけられてしまう存在で、ある種リトマス試験紙のようだと感じます。だからこそ、一番先に宗教者が弾圧されたけれど、いずれ私のところにもくるという感覚、人の人権は自分自身の人権という感覚や、宗教と政治の繋がり、それによって起こる少数者の人権の弾圧に、もっと関心を持つことが大切だと感じます。
Illustrations by 佐藤右志
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